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有限会社 矢内石油
〒961-0102
福島県西白河郡中島村大字滑津字平名塚1
TEL:0248-52-2020
営業時間:
平日月~土 7:30~19:30
日祝 8:00~19:00
※不定休(年に5日程度あります)

リフォーム専用:
0120-437-346
受付時間: 9:00~18:00

矢内石油について

矢内石油の歴史

福島とともに半世紀

プロローグ 創業者、矢内清二郎という人

創業者の矢内清二郎は西白河郡中島村(旧滑津村)出身で、16歳で東京へ出て免許を取得し運転手の仕事に就いていました。しかし、大正12年に関東大震災に遭い21歳で地元へ戻りました。当時は西白河郡で運転免許を取得している者が3〜4名程度だったそうです。

ある時は、当時希少だった運転手の腕を買われ消防車の運転を任されたこともありました。しかしこの時消防車を南湖公園の池に落とす大失態をおかしてしまいます。

その後自前で車を購入し、個人で白河と中島を繋ぐ乗合バスを立ち上げました。すると利用者が多く非常に商売としてもうまくいきました。一時は事業の幅を広げて苗木を育てて販売する林業の職業に就き、遠く長野県まで行商にいったこともありましたが、これもまたよく売れました。
次々と新しい事業に挑戦しては成功し、かなり先見の明と商才があったことが伺えますが、人物としては豪傑豪快な一面があったようです。

1956年 中島村で初のガソリンスタンド 「矢内油店」を創業

創業者矢内清二郎がこれまでのドライバー等の経験を活かし、中島村で初のガソリンスタンド「矢内油店」を創業しました。当時は1ヶ月かけてドラム缶2本分しか販売できなかった時代でしたが、「これからは一般的にも自動車が普及する」ことを信じて、矢内油店は誕生しました。

ちなみにこの時矢内清二郎は50歳を過ぎており、2代目の矢内キヨ子現会長は20代後半。創業者は非常に厳しい性格で妻(小学校の教諭)、子ども共に口答えすることは許されませんでした。 

1962年プロパンガスの取り扱いを始め、各家庭にガスの販売を開始家庭用燃料は、薪から豆炭・練炭・木炭そして石油コンロと変わる

ホームエネルギーとしてLPガスの取り扱いを始めましたが、これもスタートは非常に大変なものでした。今では電気や水道のような検針メーターが設置され、燃料切れのないようトラックでの定期配送システムが組まれていますが、当時は小型バイクの後ろに荷台を付けて10kgのボンベを1本ずつ住宅にピストン配達していました。1件配達すれば、また戻って配達に行く。どうしても夕飯の時間までにお届けできなくて、お客様からお叱りを受けたことも多々ありました。
2年後の1964年には2代目矢内右内が矢内油店に入社、初代とともに店を運営するようになります。しかしその2年後1968年に2代目矢内右内は他界し、妻キヨ子が運営を引き継ぎます。1973年には第一次オイルショック、1979年に第二次オイルショックと、社会もめまぐるしく移り変わった時期でした。

1975年 家庭用LPガス供給の競争がはじまる

そのころ、近隣の町のガス納入業者とかなりライバルになって厳しい状況に陥ることもありました。矢内油店では、中島村と矢吹町南部の地域でLPガスの取り扱いを行っていましたが、矢吹町南部の販売店でも取扱うようになったため、空きボンベを戻されてしまうこともありました。
また、そのような状況で店舗を運営する傍ら、矢内キヨ子は女手一つで三代目矢内宏を育て上げました。若くして2代目を亡くし様々に大変な境遇にありながら、地域の人々に支えられ乗り越えてきました。

1990年 矢内油店から「有限会社矢内石油」に屋号を変更

1985年には、健在であった初代矢内清二郎が他界します。世の中の移り変わりでは矢内油店の前を通る日立街道がアスファルト舗装され、自動車とともにガゾリンの需要も増えてゆきました。そのような時代背景とともに5年後のこの年、屋号を変更、3代目矢内宏が代表に就任します。

2009年 4代目矢内哲が入社

4月、3代目矢内宏が体調に違和感を覚え、一時前線から外れた時期がありました。腸の腫瘍と合併症を患ったことがのちにわかったのですが、このことを機に、そのころ一般企業に勤めていた4代目矢内哲が中島に戻り、8月矢内石油へ入社しました。家業に戻ってきた4代目哲は、今までとまったく違う業種と、仕組みのない状況にだいぶ戸惑うことも多いようでした。

この間に他店舗が閉店などで、矢内石油が中島村唯一のガソリンスタンドとなります。

2010年 情報化、そして新たな領域への挑戦

4代目の哲は、入社してからしばらく灯油などの燃料配達業務に従事していました。その中でLPガスの使用量と配達履歴が別々に管理されているなど、業務の非効率な点に気づきました。これまでアナログで管理されていたさまざまな業務データを一気に仕組み化し、会社とお客様がこれからも永くあり続けられる体制へと変革を起こします。

2011年 時代の変化と、東北大震災

毎日の当たり前が一気に失われ、考え方や物事の見方が一変した3月11日を私たちは忘れることができません。

3月11日

3月11日は夕方まで状況の把握に追われ、当時の小さな店舗では割れたガラスの処理などを行いました。その後、村役場や消防が村内の巡回ということで緊急車両への給油要請がありました。それを見て、今度はたくさんの方が列をなしました。POS通信が途絶えていたので、すべての給油は伝票に手書き。ちょうどあの日は気温がぐっと落ち込んできて、手をかじかみながら、4代目矢内哲と妻千穂の2人でひたすら給油し続けました。

3代目矢内宏と妻晶子は、村内でガスを供給させていただいているお客様を1軒1軒廻り、異常がないか、ガス漏れしていないか確認していました。こちらは数日かけて全件巡回したのですが、事故も異常も1軒もありませんでした。これは本当に幸いでした。

3月12日

状況が少しずつ分かってきて、これはえらいことだと全員が認識したのは翌日のこと。
震災当日のうちにこれは大変なことになるのではと予感し、コスモ石油へ次回の燃料のオーダー(注文)を出していましたが、コスモの担当者からオーダーは今すべてストップしているとの電話があったのです。官公庁への提供している燃料もこのままだと数日のうちに切れることが分かっていましたので、誰もがもう限界だと思っていました。

3月12日

しかし、幸運が起こりました。地震発生の3日後、キャンセルされたはずのタンクローリー車が到着しました。震災当日に出した注文が混乱のなか、なぜか通過してしまったようでした。その様子を見て、4代目矢内哲には何ともいえない感情が沸き起こって自然と涙が出ていました。ほぼ空だった地下タンクは満タンになり、これでまた5日は持ちこたえることができました。その後もタンクへ補充しては供給し、空になりそうな頃またギリギリでタンクローリーが到着する状態が続きました。あって当たり前だった、水や食料はおろか、ガソリン、灯油に空気でさえも当たり前ではいと感じた1か月でした。これは4月上旬ごろまで続きました。
震災で、日々の当たり前がいかに暮らし人々にとって貴重で有難いものなのか、改めて思い知らされることになりその意味でも衝撃的な出来事になりました。油の供給も少しずつ正常化し始めたは4月中旬ごろ。私たちは少しずつ元の暮らしを取り戻すとともに、何気ない当たり前の毎日がどれだけ幸せであるかを痛感するとともに、そのような日々に感謝の気持ちを感じるようになってきました。

2012年 企業ミッションとして「くつろぎの場を増やす」ことを提唱矢内石油リニューアルオープン

2011年の震災を経験し、新たな社会的使命として中島村とその周辺の顧客に対して社会インフラ整備にとどまらずより快適な暮らし環境を提供することを強く意識し「くつろぎの場を増やす」ことを提唱。燃料供給と水廻りリフォームはどちらも欠かせないものであり、これらを「車」と「家」の快適を提供するという枠で捉えることで事業の大きな2本柱としました。
また、人材の採用活動にも積極的になります。8月には3人が増え、12月にはさらに6名増え、12月19日店舗のリニューアルオープンを迎えることができました。店舗設計も、サービス内容も、スタッフ増員も、手探りではありますがひとつひとつ丁寧に積み上げていきました。

2013年 コーティング部門の成長

矢内石油は3月に県南初のキーパーコーティングプロショップの技術認定を取得しました。
そもそもコーティング部門は2012年に採用したスタッフの一言から始まりました。最初は1人だった技術者だったのですが、新車以上にキレイになるその様子に他の仲間も心を奪われ、キーパーコーティングの魅力に虜になっていきました。
本人たちの熱で、思いで、始まったこの部門は、日に日に勢いを増し、12月開催のキーパー選手権において、福島県3位入賞を果たし、東北でも7位の快挙となりました。

(続く)



※中島村の歴史についての出典:wikipedia
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